頭から血を流した人に会いたい

 

[1]役に立たない

 なぜ、前を走る知らない人のチャリから投げ捨てられた燃えたままのタバコを、たまたま後ろを歩いていた個人練帰りの僕が踏み消さなければいけないのだろう。

 そんな帰り道、お弁当屋で注文を待っていたら、女性がすごい形相で店員さんの元へ「そこの電信柱で友達が頭打って血を流しているので何か頭を押さえるものをください!!」と駆け込んできた。僕も何か役に立ちたいと思いリュックを探ったが、悲しいかなドラムのスティックしか入っていなかった。幸い軽傷で店員さんから渡されたティッシュで頭を押さえながら、そのまま自力で立ち去っていった。

 「どうでもいいときに役に立ち、大事なときに役に立たないな僕は。」とリュックの中のスティックを眺めながら溜息をついた。

 

[2]役に立たない

 大学院では専攻が歴史学という分野だったことも相まって、この学問は「役に立つのかどうか」という説明を外向きにこねくり回さなくてはならなかった。

 歴史学は僕なんかが抱えきれないほど「今の時代を生きるための学びを過去から得る」魅力的な学問だったが、病気が治るわけでもお腹が膨れるわけでもないので、学の浅い僕は「この学問が役に立つかどうか」について、腑に落ちる説明力を身につけないまま修了してしまった。

 それは自分の勉強不足からくるものでしかなかったが、一方では「「意味がないけどやたら情熱的になれるもの」こそが人生にとって重要じゃん」と自分を納得させていた。学問だって「やりたいからやるんだ」でいいじゃん、と考えていた節があり、そう思うことで学の浅いままの自分を楽に放置し、「有用性」に真っ向から向き合わないままだった。

 

[3]やっぱり役に立たない

 さっき買ったお弁当を頬張りながら、何気なく初めてドラムを叩いた河内松原駅近くのスタジオパイCスタジオを検索していた。

 僕は役に立つのかどうか分からないまま、十年以上ドラムを叩いている。棒で物体を十年以上殴り続けて到底役に立つとは思えない。が、「やりたいからやるんだ」で僕の人生は明るくなっている。社会での有用性と人生の豊かさは異なる尺度で価値を持っている。なんでも役に立つ、立たないの物差しで当て嵌めて切り捨てるのは良くないなと思った。

 これからは頭から血を流した人がいたら、僕は頭を押さえるものではなく、笑顔でドラムスティックを渡そうと思う。いや、ダメか。役に立つ、立たないとかじゃなく、単純にヤバい奴だもんね。やめようね。