自分で自分を救う

[1]物心ついたとき

 一番最初の記憶はどこからだろうか。僕の場合は、水風呂に入りながらシャボン玉を吹かしていたら、うっかり手を滑らせてシャボン液を浴槽に落としてしまったところから始まる。多分2〜3歳くらいの記憶だ。そのあと母がおやつだと言って出してくれた薄切りロースハムが、舌に残ったシャボン液のせいでやけに苦かった。

 記憶なんて本当は曖昧なものなのに、時に人はそれにもたれかかって安心しようとしたりする。記憶の偽造で、シャボン玉を吹いていなければ、ハムも食べてないかもしれない。ただそういう記憶に背をもたれてなんとなく安心したい僕がいた。

 

[2]不幸は誰だ

 とあるホームレスの男性。朝、会社へ向かう僕を横目に駅のコンコースで新聞を優雅に読む彼は、夜、僕が疲れた体を引きずって帰るまでずっとそこで一日を過ごしていた。なるほど賢い。切符を買って構内に入ってしまえば雨も凌げるし、今の季節シンプルに暖かい。あらゆる人からの社会的な視線や恥を犠牲にして、文化的な暮らしを手に入れる手段に感心した。

 きっと不幸なのは、ホームレスの男性に憐れむ視線を投げていた思考停止した僕の方だ。彼から見れば、僕は社会の奴隷に過ぎない。やりたいことがあるのに、暮らしの銭を稼ぐため、一日の大半をやりたくないことに費やして生きて、ゾンビのように帰ってくる毎日。そんな人生を選んだのは自分なのに。つまらなさを周りのせいにしている自分をまずは悔いて然るべきだった。

 

[3]自分で自分を救う

 2度、ブラック企業に勤めてしまった僕は、社会に対して希望を持つことができない。なので時折苦いハムの味を思い出して楽しかった過去に頼ってみたり、駅のコンコースで自分の不甲斐なさに打ちのめされたりする。

 ここまで書いていて、なんだかムシャクシャして勢いでスタジオに入ってドラムを叩いてきた。一気に目が覚めた。社会に絶望している自分に残された逃げ道は音楽で、音楽をテコにして、このままだとつまらなくなってしまう人生に抗っているだけだった。

 昔を振り返るくらいならドラムを叩け、ゾンビのような社会人毎日を後悔するならドラムを叩け、というわけか。答えは簡単だった。冬の寒さに硬直する体や、騒々しい世間に惑わされてはいけない。春はもうすぐ。やれることをただ全力でやり、自分で自分を救うだけだった。