メモ:植物と心の水遣りを忘れない

 

[1]枯れた植物に水を遣る

 自宅の出窓に四つ植物を置いているが、今年の夏に怠惰のせいで内二つを枯らしてしまった。人の怠惰で左右される命ほど残酷なものはない。自分の身勝手さに悲しくなりながらも、怠惰なのか癖なのか、生き残りの植物に水を遣るついでに、枯れた植物にも水を与え続けていた。

 しばらくすると夏の終わりと同時に怠惰にも終わりが訪れ、枯れた植物に水を与えることを辞めて、生きている植物にのみ水遣りを専念するようになった。しかし枯れた植物を捨てる気にもなれず、運気が悪くなりそうだなと思いつつも出窓に置いたままになっていた。

 それから数ヶ月、冬を目前にして枯れた植物の内一つから何故か葉っぱが芽生え始めた。水すら与えなくなったというのに。不思議かな今は元気である。

 僕は「生命力ってすごいな」と思いながらも、本来自分の怠惰がなければここまで苦労して死にそうになりながらも、葉っぱを芽生えさせる運命を辿る必要がなかった植物に深く申し訳ない気持ちになった。人間は身勝手に怠惰になり、身勝手に感動したり、身勝手に申し訳なくなったりする。

 

[2]心に水を遣る

 つい先ほどZOOZの練習の終わりがけに、「二年前くらいの僕たちのLINE、ほんと冗談ばかり言ってましたね」とアベさんに話したら「確かに。変わってないつもりだったけど、コロナ前に漂っていた見えない期待感みたいなのがゆっくり消えて、いつのまにか現実的になってしまったね」と返ってきた。

 練習終わりの終電に揺られ、僕は同じ車両にいる態度と声のでかい三人組の社会人に冷たい視線を投げながら、アベさんの言葉を反芻していた。確かに自分達が音楽を続けるために、なるべくリスクを小さくして、コンパクトに生きることを余儀なくされている。

 人が押し合うライブハウスや、熱気と湿気が織りなす謎の空気のうねりや高揚や感動や苛立ちは、安全性を担保するために捨てなければならなかった。それゆえに、期待は薄れ、現実を見ながら、それでも音楽を続けることになった。

 自分が出窓の枯れた植物と同じ状態だと思った。いつしか怠惰で与えられる水すらもなくなって、このまま枯れるのか、しぶとく葉っぱを芽吹かせるのか、分からない、そんな状況だ。こんな思いを、僕の単純な怠惰のせいで、出窓の植物は味わっていたのか。また勝手に悲しくなった。

 「植物と心の水遣りは忘れない」。脳にタトゥーのようなメモをした。