負け組の履歴書

[1]履歴書

 他人の人生を喰らって生きている。ブラック企業に勤めていたある時、社長に呼び出されて分厚いファイルを手渡された。そのファイルには大量の履歴書が綴じられていた。めくってもめくっても、知らない人の顔写真が続いた。

 「これはね、負け組」社長はニッコリと笑って言った。「このファイルに綴じられているのは、この会社を辞めた負け組。屍。君もこの負け組ファイルに入りたくないだろ?人生の勝ち組になりたいだろ?なら、仕事を頑張りなさい。」

 当時の従業員数より遥かに多い履歴書を眺めながら、とりあえず僕は「はい!頑張ります!」とだけ返事をすることで、社長室から出ることに成功した。「辞めた人は賢明な判断をしている」と思った。

 社長はその時々で他人の人生の貴重な時間を食い尽くして、他人をズタボロにするだけズタボロにして、利用できなくなるまで使ったら捨てるだけの人物だった。一方で「自分は嘘をついたことがない」と天に誓うことのできるとんでもない胆の持ち主だった。

 他人を人生を潰して得た富で暮らして、勝ち組だと誇っていた。勝ち組とか負け組とか、本当にもう、辞めて欲しい。他人の人生の屍の上に成り立つ生活が、果たして心地よいのだろうか。しばらくして僕もその屍の一つになるわけだが。

 

[2]勝つとか、負けるとか

 音楽で勝つとか負けるとか、あるのだろうか。20代の頃は、間違いなくあると思っていた。今日はあのバンドに勝っただの、負けただの自分なりに線引きをして束の間の優越感に浸ったり、歯痒い思いを勝手にしていた。

 最近は、他人に向けたそういう視線はほとんどなくなった。対バンが凄ければ凄いほど、「自分に」負ける気にはなる。しかし自分に負けた気が「少し」で済むのは、自分に、バンドにそれなりに自信があるからだろう。

 ブラック企業の社長は、ずっと「誰かに勝った、負けた」という価値観で生きていた。「営業では勝ち癖をつけろ」と言って、倉庫の全ての商品を売っても届かないノルマを課せられ、達成できずに詰られた。「だからお前は負け組なんだ」と。「俺は勝ち続けたから今も会社が存続しているんだ」と。

 バンドは対バンに勝ち続けなければならないのだろうか。きっとそうではない。本当は、音楽はただ純粋に楽しいものだと思う。自分と闘って、ああ良くやった、楽しい、楽しい、で良いと思う。

 きっとそれだけでいいし、勝ち組、負け組と区分けして生きる人生は、きっと勝ち組の声の大きいよく分からない理論で丸め込まれるか、丸め込むかしかない。そんな他人を貶める人生は楽しいのだろうか。僕には分からない。僕には分からないが、勝ち負けを超えた音楽活動は、幾らか楽しいのであまり考えなくても良い気がしていた。

お金と地位と泥団子

[1]大阪の終電

 治安が悪い。本当大阪ってやつは。ZOOZのスタジオ終わりで京都から大阪へ帰るとき、どうしても終電に乗る時間になる。大阪駅ではぎゅっと濃縮された人間の業と沢山の欲望と吐瀉物が散乱している。

 酔っ払いと駅員が揉めた直後の改札付近で、なぜか酔っ払いが財布から札束を捨てていた。僕は歩きながらそれを眺めていた。不思議と、くしゃくしゃに床に投げ捨てられた札に欲深い僕の視線は固定されてしまったが、お札がシンプルにただのゴミに見えた。

 同時に、僕はこんなものに人生振り回されているのか。こんなものに一日の大半を捧げているのか。自分自身にすごく悲しくなった。一時的であろうと、お金から解放された酔っ払いが少し羨ましく見えた。

 

[2]運が良くなる

 電車に乗ると「あなたの運がドンドンよくなる」と書いた広告が目に入る。これまた大金運の著書の広告だ。そういえば朝の通勤電車にも貼っているな。

 外で目を開いている時間は、ほとんどお金にまみれている。ICOCAでマネーポイントが貯まるらしい広告も目に入る。もうやめてほしい。こんなものから解放されたい。さっきの酔っぱらいみたいにお金を捨てようか、それは無理だから、無理な自分が悔しくなってくる。

 そういえば学生の頃の友達は、今ではすっかり「年収マウント」を取る人物に変わっていた。ある友達は「地位マウント」を取る人物に変わっていた。もう当時の友達ではなく、何かに縋って下を見ないと安心できない哀れな存在に見えなくもなかったが、一方で少し羨んでる自分も居なくはなかったので、マウントは割とそれなりに僕にダメージを与えていたようだった。

 

[3]泥団子

 幼稚園の頃、友達と下駄箱の奥に泥団子を隠して、毎日毎日ピカピカに磨き上げて遊んでいた。ある日、その友達とピカピカの泥団子を同時に滑り台から転がしてみると、二つとも泥団子はあっけなく割れてしまった。割れてしまったが、楽しかったねと笑い合っていた。

 今思えば、あまりにもピュアで、あまりにも子ども的な価値観で生きていたと思う。お金も、年収マウントも、地位も、ピカピカの泥団子と同じようなもののはずで、本来非常に脆く、不安定で、本当に価値があるのかよく分からない。

 けれど、そういう不確かなものに縋って生きなければ精神を保てないのが世の大人の大半である。そう思うと大事な泥団子が割れて笑い合っている子どもの方がよっぽど立派だ。

 そんなことを思い巡らせているうちに僕は最寄駅に到着した。今日は少し子どもに還れたかもしれないと、胸を張ってICOCAを使って改札を通り抜ける僕だった。マネーポイントは貯まるのかどうかなんて知らない。

恩を返す季節

[1]恩を返す季節
 ブラック部署で心を病んで職を辞め、続けて別のブラック企業に勤めてしまい、働けど働けど人生は好転することもなくむしろ懐も心もじり貧に向かう最中、他の可能性を拓く気力もなく、バンドは続いていたがもう色々人生詰んでいた5年ほど前の日々のなかで、人に察してもらい助けてもらった過去がある。
 それはモノ的にも精神的にも、かけてくれた言葉の中にも息づいて、当時なんとか生活を続ける気力になった。不思議なものである程度生活がままなった今、当時受けてきた恩を返すチャンスが連続で訪れている。「恩を返す」という行為は時に単なるエゴでしかないのは承知の上で、そして、別に恩を返さなくても誰もなんとも思わないけれど、ここで人のために何かしたり伝えたりしないと、今後の自分の人生がダメになってしまいそうな気になっている。
 そしてええい、エゴでいいじゃないかと色々と首を突っ込んでいる。首を突っ込んでみると面白いことに、また新たに自分の人生観を変えたり強化する言葉に出会う。結局は自分のエゴだけど、恩は返すに越したことはない。


[2]恩を断る
 名古屋の栄には、僕がブラック企業時代に良くしてくれた取引先のお店がある。僕が色々ダメになって突然仕事を辞めたとき、個人的に連絡をくれて「名古屋に来ないか?」と声をかけてくれたことがあった。
 結局は名古屋へいかなかったけれど、そのときに名古屋を選んでいたらどんな人生になっていただろう。当時名古屋へいく決断をしていたら、きっとガストバーナーに入っていない。価値観や挫折が整うまで、僕たちは早く出会ってしまってはいけない。そして勿論ZOOZも組んでいない。先日ヤジマX KYOTOのツアーファイナルが終わって、名古屋のネットカフェで一晩過ごして始発へ向かうとき、その取引先の前を通りかかり記憶が色々と蘇って考えていた。
 「名古屋へ来ないか?」とかけようとしてくれた恩を断ったことで、拓ける未来もある。条件もよかったのに、なんでその誘いを断ったのだろうか。その理由も思い出せないけれど、多分「なんとなく」だったんだろう。恩を返すとか返さないとかエゴとかで人生は拓けるのではなく、案外「なんとなく」がすべての因果になっているかもしれない。

幸せは足元に

 

[1]ちょっと変な僕

 「あんたちょっと変やけど面白いね!!」母が僕の姿を見えなくなるまで見送るときに、笑顔で発した言葉がやけに心に残っている。

 晴れて検査入院から退院ということで、何かあってはいけないと母を病院まで迎えにいったが、結果的に母から軽い荷物を取り上げていかにも手伝っているように装って、ただただ母の住む家に着いて行っただけだった。

 道中、昔母と住んでいたマンションがリフォームされた上に家賃が下がったとか、平成に取り残されたようなモールに寄って物色したパジャマが少し高いねとか、固いベンチに座ってお茶を飲んだり、たこ焼き屋が潰れてまたたこ焼き屋ができたのよとか言いながら、そのたこ焼きを買って母と他愛もない話を続けて家に着いて行ったが、それでも足りないのかもう2時間くらい母の部屋で話していた。

 母と2人でここまで話すのは一体何年振りだろう。当たり前のように話しながら、当たり前でない時間の貴重さを噛み締めていた。

 

[2]泥酔の記憶

 母が僕に「ちょっと変」と言ったのは、母の住む家から最寄駅まで歩いて30分くらいかかるし、バスも走っているのに、僕が母の住む家からお暇する時、頑なに「歩いて帰る!」と言ったからだった。

 「歩いていると考えがまとまるし、街がどう変わっているのか見ながら帰りたい。」と言うと「なるほどなぁ、面白いなぁ」と反応した。

 母に見送られて一人で街を歩いてみると、案外変わっていなかった。僕が泥酔して冬に泳いで渡ろうとした川や、僕が泥酔して目覚めたら枕代わりにしていたガードレールもそのままだった。

 そんな変わらない街を見ながら先ほどの母との会話を反芻していた。母も僕も精神は変わっていないが、間違いなく体はお互い古くなってきている時の流れを感じた。この事実は悲しいことではなかったが、あと何年同じ時の流れのなかでお互い生き続けるんだろうかと冷静に考えるきっかけになった。

 

[3]幸せは足元に

 自分の家に戻ってくると、母からメールが入っていた。「とても楽しかった!!幸せです。」と言う内容だった。

 検査入院の結果もまだ分かっていないので、本当は自分の未来に大きな不安を抱えている母が、僕と他愛もない話をした数時間を「幸せ」と表現してくれたことに家で少し泣いた。

 母のメールを眺めながら、不安と幸せは案外同時にやってくるものなのかもしれない、と考えていた。幸せは追いかけるものではなく、意外と足元に転がっているのかもしれない。前ばかり見ていては気づかないこともある。また、母から大切なことを学んだ。

どんな大人にもなりたくない

[1]灰色のマフラー

 久しぶりに母に会った。「高校生の時にマフラー編んでくれたよね。あれ、今でも全然捨てれなくて家にあるよ。」と言ったら「そんなん編んだっけ?全然覚えてへんわー!」とあっけらかんとした返事が飛んできた。

 電話やメールではちょこちょこ連絡していたものの、コロナが始まる前を含めて3年以上会っていなかったので僕はとんだ親不孝者である。以前よりも確実に痩せた母の姿に少々不安になったが、話せばいつもの母である。気丈に振る舞っていただけかもしれないが、肌艶も悪くなかった。

 マフラーのことはすっかり忘れた母だったが、自宅に帰ってマフラーを取り出して見返すと、母が編んでくれた記憶と、それを巻いて高校に通った記憶が多少は湧いてくるので、編んでくれたのは事実の可能性が高かった。捨てるなんてとんでもない。

 

[2]どんな大人になりたい?

 高校生の頃、どんな大人になりたかったのかというと、特に何もなりたくなかった。ただこれは、怠けているとか未来に絶望しているというわけではなく、「なんか当てはまる職業が無いなぁ」ということだった。

 高校の適職診断で「測量士」が僕にとって最も適した仕事であると診断された。測量士の方に申し訳ないなぁという思いと同時に「なんか違うなぁ」と思いながら、大学へ進んだ。そこでも「就職活動するのはなんか違うなぁ」と思い大学院に進み、大きな志のないまま今に至って何となく生活できている。

 最近ようやく気がついた。この「なんか違うなぁ」の原因は、この世で用意されたあらゆる職業がピタッと自分にはまっていないだけということだった。現実は最初からヒトカゲフシギダネゼニガメのなかから選ばなければいけないという訳ではなかった。

 何となく生活できている状態というのは、非常に危険な状態だと思う。このままきっと、何となく生活ができて、何となく死んでいく。この状態を解消するために、少し動こうと静かに決意した。

 

[3]セキセイインコと喧嘩

 どんな大人になりたいかも分からず、ただ良い大学に行けば未来の可能性が開けるだろうとか、まだもうしばらく学生をして働きたくないとか、楽しいキャンパスライフが待っているとかいう理由だけで、高校生の僕は大学受験勉強に勤しんでいた。

 勉強部屋に一羽のセキセイインコを飼っていた。人間の残酷な横暴で鳥なのにトロと名付けられたそのインコは、時たま僕と本気の喧嘩をした。

 かまってほしいから鳥かごの中で鳴き叫ぶ。勉強の邪魔をされた僕は怒り、インコに怒鳴る。怒鳴るとかまってくれたことになるので、さらにインコは鳴き叫ぶが、意地になって僕は鳥かごの扉を開かなかった。

 当時は何故インコに僕の未来を邪魔されなければならないのだろうと怒っていたが、今思えば、インコはいくら頑張ったところで大学にもいけなければキャンパスライフが待っているわけでもなかった。

 ただ、鳥かごの扉を開けて遊んでほしい一心で鳴いていた。それがインコの想像する未来だった。僕は自分の未来のことばかりを考えて、本当に悪いことをした。

 今も時たま、10年前インコの亡骸を埋めた公園を横切ることがあるが、不意に脳内にインコの鳴き声が聞こえるというフラッシュバックもなく、ただ通り過ぎるだけだった。たまに思い返して悪いなと感傷に浸ることさえ、人間のエゴのように思えていた。

 

夢と悪夢

 

[1]ネクライトーキー

 仕事の帰り道、Spotifyのシャッフルでネクライトーキーが流れてきた。「学生の時に出会っていたら衝撃だっただろうな」と思うと同時に「学生時代にコピーはしてないかもしれない」とも思った。

 これは本当はコピーしたくてたまらないのだけど、こんな素晴らしい手練れの玄人バンドはきっと、サークルの一番上手いとされる先輩達がガチガチにメンバーを固めてコピーするに決まっていて、そのコピバンはサークル内で伝説になってしまって未来永劫そのハードルを越えることができないだろうな、という目測からでた感想だった。

 僕が学生時代の頃は、それは東京事変だったが、ネクライトーキーもそこに入っているんだろうな、と考えていた。ピカピカ☆異伝子(※1)仲間でもあるネクライトーキーが格好良く、仕事で疲れた自分が少し小さく見えた。

 

※1

 ピカピカ☆異伝子は広島が産んだ「狂気、大人のコロコロコミックバンド」と勝手に僕が呼んでいるバンド。大体明るい下ネタ。選ばれし者しかライブを見届けることができない。

 これ以上このバンドを語ることは放送倫理に引っ掛かるので差し控えたいが、過去にネクライトーキーと共に、ピカピカ☆異伝子と広島で対バンしたことがあるため、会うと度々会話に登場するバンドである。ネクライトーキーにとっては、黒歴史か、最高の思い出かのどちらかだが、僕は知らない。

 

[2]夢

 仕事中、夢のことを考えていた。この前見たガストバーナーのはるきちさんと、ペプシ派かコカコーラ派かで大喧嘩して、ライブ中も一切目を合わせなかったあの夢ではない。

 高校生の頃、なんとなく「物書き」になると思っていたので、デスクでパソコンと睨めっこする人生になるとは思っていなかった。

 この夢というのは厄介なもので、夢が叶うというのは、思い描いた職業やら何やらで生計を立てる、豪邸を建てる、有名になるということだったり、なんらかの社会的な成功が含まれがちだったりする。

 「夢を追いかけるということは、同時にお金を追いかけるということ」と勘違いしやすいが、もっとピュアになって良いんじゃないかと思うようになってきた。現状パソコンを睨んでいるだけでお金が入っているのだから、夢とお金がどうしても絡みつくのであれば、すでに僕は夢が叶っているのかもしれない。

 そうではなく、もっとピュアなもの、ちゃんとお金を切り離せば、叶わないと思っていたものすら手軽に取り組めるんじゃないかと力が湧いてきた。

 ピカピカ☆異伝子だって、あれは立派なピュアな夢なんじゃないだろうか。やりたいことをするという意味であれば、立派な夢だ。いや、見る人がみたら、悪夢なのかもしれないけども。

 

貧乏は買えない

[1]貧乏は買えない

 「苦労は買ってでもしろ」というが、買えるのならばまだ安い。貧乏はそもそも買えない。僕の育った家庭は色々あったので貧乏だった。自立した今も決して多くの余裕があるわけでもなければ、どちらかと言えば貧乏だけれど、それで良かったと思っている。

 「貧乏」が僕の人格形成に関するほとんどの出発点になっている。お金がないことで得た経験を積み重ねて育ったので、当然お金を尺度にした「社会」とか「資本主義」に馴染まないまま大人になってしまった。そりゃズレた人間になってしまうに決まっている。

 ふと考え直すきっかけがあり貧乏を再考しているけれど、いくら考え直したところで現状はなにも変わらない。社会とのズレも変わらないので、いくら書き連ねても多少の気の紛らわし程度にしかならないのかもしれない。

 

[2]握りしめられたハガキ

 貧乏から抜け出す手段の一つとして「仕事」がある。僕は学生が終わってこの「仕事」で貧乏から抜け出し、「お金がない」ことと無縁の人生を歩むはずだった。

 それなりに良いとされる大学を出て、10倍以上の試験倍率を勝ち抜いて社会人となり初めて勤めた職場で配属されたのは、稀有なブラック部署だった。

 勿論労働時間や仕事量は適正量を大きく超えていたけれど、それよりも「このままだと感覚が麻痺して人間として終わってしまう」という出来事の連続が僕の精神を病ませた。

 具体的には書けないが、年に一度、低所得者向けの抽選会のようなものがあり、その現場を担当した。数十人近くが会議室に座り、ハガキを握りしめている。その目の前で商店街の福引で使うような、粗末なガラガラでハガキに書かれた当選番号を発表していく。

 その抽選会は非常に倍率の高いものであり、来た人のほとんどは外れる。外れれば来年に再抽選となるが、抽選が終わったのに多くの人は帰ろうとしなかった。僕や上司ににじりよって「明日からの生活をどうすれば!」と訴えていた。椅子に座ったままハガキを握りしめて泣いている人もいた。8年連続で外れているらしかった。

 上司は慣れた様子でその場を諌めて強制的に帰していたが、僕は貧乏を経験している分、彼らの毎日の生活が肌感覚のように襲って来て辛くなっていた。帰りに上司と定食を食べている間も、抽選に外れた人は今日、明日、来週の生活に大きな不安を抱えて生きていく。僕はその不安を肌でなんとなく理解し、実態のある恐怖として迫ってきたが、上司は気づいていないふりをしているのか、理解していないのか、それともそんな人たちの人生よりも自分のお腹が空いていたのか、ともかくそんな様子だった。

 こういう出来事が大小つらつらと起こりながら働いているうちに、僕は「自分の生活が豊かになる代わりに、人間として大切なものを失ってしまうのではないか」と思い始め、精神的に病んでしまった。

 一年も経たないうちに続けることができなくなり辞めてしまった。これからの生活の豊かさを捨て、人間として大切なものを取った、といえば聞こえはいいけれど、正直なところなんかもう色々ダメになってしまっただけだった。だけど、この選択に後悔はしていない。

 

[3]のび太的思考

 お金がないが故に「スタート地点に立つまでに時間がかかる」という経験は、貧乏特有のものかもしれない。友達の家に行かなければニンテンドー64で遊べない、いつまで経っても遊戯王のデッキが充実しない、私立を受験の選択肢に入れない、塾には行けない、専門書が買えない。

 これは不満ではない。やりたいことがあるならば自分の力で手に入れ、スタート地点に立つのが当然だと思っている。のび太ならドラえもんに泣きつくだろうけど。

 しかし、いくら当然と思っていても現実は少し違う。自分がスタート地点に立つまで時間を対価に稼いでいるうちに、他の人はあっさり手に入れてどんどん先に進んでいたりする。スネ夫のび太の格差と言えば分かりやすいかもしれない。現実にドラえもんは居ないので、この差に打ちのめされてしまうことがしばしばある。というか、もう毎日打ちのめされている。

 時に自分の家庭を恨んでしまいそうになるけれど、これは矛先が違う。この不条理な現実すらも乗り越えて、なんとか人生を楽しく過ごすようにする前向きな工夫をたくさんするしかなかった。まぁ、その工夫のほとんどは上手くはいかない。

 しかし、自分がのび太でも、ドラえもんが居なくても、挫けまくってもう嫌だと思っても、最終的にはそれなりに前向きに生きている。貧乏だから明日の不安を抱えながらというオプション付きだけれども。

 

[4]死にたいを科学する

 「あ、死にたい」と僕は割と人に聞こえないように呟く。本当に死にたいわけじゃない。けれど無意識に発する「死にたい」は一体どういう気持ちを表しているんだろうと気になった。

 この「死にたい」を分解すると、「なんで自分がこんな目に」とか、「周りは普通の暮らしができているのに」とか、社会や周りと比較した時の自分の境遇や悲壮感やズレに耐えきれなくなって、「あぁ死にたい」と呟くわけだった。

 社会の厚かましさ(これは自分にとって厚かましいと感じるだけで、他の人にとってはなんてことないことだったりする)と自分とのズレを解決する方法の、最もストレートな答えは「死」なのだ。ズレを直すのは無理ゲーだし、自分を曲げてまで社会に適合したくないのなら余計に。何度でもいうが死なない。

 ただただ、うっかり毎日社会とのズレに絶望している僕は、貧乏だから働かねば目の前を生きていけない。それも人一倍切羽詰まって働かなきゃいけないので自分を無理に納得させるけれど、やはりどこかで軋みが出てしまうのだ。それが「死にたい」という言霊になって自分自身のガス抜きをしていた。

 

[5]自分が納得するかどうかだけ

 決して貧乏の文句を言うつもりでこれを書いているのではない。いくら貧乏で、やりたいことを始めるまで時間がかかり、他人に引き離されて死にたいと思うことが多くても、僕は結局のところこの人生が好きだ。

 貧乏だと失うもの、できないこと、届かないことに目が向きがちだけど、逆にたくさんの優しい気持ちを養っている。

 それは、貧乏でないと味わえない明日への生活の不安であったり、税金に生活が根こそぎ持っていかれる感覚であったり、たくさんの諦めであったり、他人への羨みであったり、そういう経験を根っこにしないと分からない無数の痛みが、他人の痛みやありがたさに敏感になるセンサーを作ってくれている。

 そして無意識にこのセンサーを働かせて僕は人間関係を構築している。貧乏を経験せずともここを分かってくれる人は多くいて、案外身の回りの世界は優しい。逆にあぁこの人は優しそうに見えてダメだわ、ということも一発でわかる。

 そうやってこれからも自分の周りを健やかに作っていく。貧乏は、案外悪くない。