貧乏は買えない

[1]貧乏は買えない

 「苦労は買ってでもしろ」というが、買えるのならばまだ安い。貧乏はそもそも買えない。僕の育った家庭は色々あったので貧乏だった。自立した今も決して多くの余裕があるわけでもなければ、どちらかと言えば貧乏だけれど、それで良かったと思っている。

 「貧乏」が僕の人格形成に関するほとんどの出発点になっている。お金がないことで得た経験を積み重ねて育ったので、当然お金を尺度にした「社会」とか「資本主義」に馴染まないまま大人になってしまった。そりゃズレた人間になってしまうに決まっている。

 ふと考え直すきっかけがあり貧乏を再考しているけれど、いくら考え直したところで現状はなにも変わらない。社会とのズレも変わらないので、いくら書き連ねても多少の気の紛らわし程度にしかならないのかもしれない。

 

[2]握りしめられたハガキ

 貧乏から抜け出す手段の一つとして「仕事」がある。僕は学生が終わってこの「仕事」で貧乏から抜け出し、「お金がない」ことと無縁の人生を歩むはずだった。

 それなりに良いとされる大学を出て、10倍以上の試験倍率を勝ち抜いて社会人となり初めて勤めた職場で配属されたのは、稀有なブラック部署だった。

 勿論労働時間や仕事量は適正量を大きく超えていたけれど、それよりも「このままだと感覚が麻痺して人間として終わってしまう」という出来事の連続が僕の精神を病ませた。

 具体的には書けないが、年に一度、低所得者向けの抽選会のようなものがあり、その現場を担当した。数十人近くが会議室に座り、ハガキを握りしめている。その目の前で商店街の福引で使うような、粗末なガラガラでハガキに書かれた当選番号を発表していく。

 その抽選会は非常に倍率の高いものであり、来た人のほとんどは外れる。外れれば来年に再抽選となるが、抽選が終わったのに多くの人は帰ろうとしなかった。僕や上司ににじりよって「明日からの生活をどうすれば!」と訴えていた。椅子に座ったままハガキを握りしめて泣いている人もいた。8年連続で外れているらしかった。

 上司は慣れた様子でその場を諌めて強制的に帰していたが、僕は貧乏を経験している分、彼らの毎日の生活が肌感覚のように襲って来て辛くなっていた。帰りに上司と定食を食べている間も、抽選に外れた人は今日、明日、来週の生活に大きな不安を抱えて生きていく。僕はその不安を肌でなんとなく理解し、実態のある恐怖として迫ってきたが、上司は気づいていないふりをしているのか、理解していないのか、それともそんな人たちの人生よりも自分のお腹が空いていたのか、ともかくそんな様子だった。

 こういう出来事が大小つらつらと起こりながら働いているうちに、僕は「自分の生活が豊かになる代わりに、人間として大切なものを失ってしまうのではないか」と思い始め、精神的に病んでしまった。

 一年も経たないうちに続けることができなくなり辞めてしまった。これからの生活の豊かさを捨て、人間として大切なものを取った、といえば聞こえはいいけれど、正直なところなんかもう色々ダメになってしまっただけだった。だけど、この選択に後悔はしていない。

 

[3]のび太的思考

 お金がないが故に「スタート地点に立つまでに時間がかかる」という経験は、貧乏特有のものかもしれない。友達の家に行かなければニンテンドー64で遊べない、いつまで経っても遊戯王のデッキが充実しない、私立を受験の選択肢に入れない、塾には行けない、専門書が買えない。

 これは不満ではない。やりたいことがあるならば自分の力で手に入れ、スタート地点に立つのが当然だと思っている。のび太ならドラえもんに泣きつくだろうけど。

 しかし、いくら当然と思っていても現実は少し違う。自分がスタート地点に立つまで時間を対価に稼いでいるうちに、他の人はあっさり手に入れてどんどん先に進んでいたりする。スネ夫のび太の格差と言えば分かりやすいかもしれない。現実にドラえもんは居ないので、この差に打ちのめされてしまうことがしばしばある。というか、もう毎日打ちのめされている。

 時に自分の家庭を恨んでしまいそうになるけれど、これは矛先が違う。この不条理な現実すらも乗り越えて、なんとか人生を楽しく過ごすようにする前向きな工夫をたくさんするしかなかった。まぁ、その工夫のほとんどは上手くはいかない。

 しかし、自分がのび太でも、ドラえもんが居なくても、挫けまくってもう嫌だと思っても、最終的にはそれなりに前向きに生きている。貧乏だから明日の不安を抱えながらというオプション付きだけれども。

 

[4]死にたいを科学する

 「あ、死にたい」と僕は割と人に聞こえないように呟く。本当に死にたいわけじゃない。けれど無意識に発する「死にたい」は一体どういう気持ちを表しているんだろうと気になった。

 この「死にたい」を分解すると、「なんで自分がこんな目に」とか、「周りは普通の暮らしができているのに」とか、社会や周りと比較した時の自分の境遇や悲壮感やズレに耐えきれなくなって、「あぁ死にたい」と呟くわけだった。

 社会の厚かましさ(これは自分にとって厚かましいと感じるだけで、他の人にとってはなんてことないことだったりする)と自分とのズレを解決する方法の、最もストレートな答えは「死」なのだ。ズレを直すのは無理ゲーだし、自分を曲げてまで社会に適合したくないのなら余計に。何度でもいうが死なない。

 ただただ、うっかり毎日社会とのズレに絶望している僕は、貧乏だから働かねば目の前を生きていけない。それも人一倍切羽詰まって働かなきゃいけないので自分を無理に納得させるけれど、やはりどこかで軋みが出てしまうのだ。それが「死にたい」という言霊になって自分自身のガス抜きをしていた。

 

[5]自分が納得するかどうかだけ

 決して貧乏の文句を言うつもりでこれを書いているのではない。いくら貧乏で、やりたいことを始めるまで時間がかかり、他人に引き離されて死にたいと思うことが多くても、僕は結局のところこの人生が好きだ。

 貧乏だと失うもの、できないこと、届かないことに目が向きがちだけど、逆にたくさんの優しい気持ちを養っている。

 それは、貧乏でないと味わえない明日への生活の不安であったり、税金に生活が根こそぎ持っていかれる感覚であったり、たくさんの諦めであったり、他人への羨みであったり、そういう経験を根っこにしないと分からない無数の痛みが、他人の痛みやありがたさに敏感になるセンサーを作ってくれている。

 そして無意識にこのセンサーを働かせて僕は人間関係を構築している。貧乏を経験せずともここを分かってくれる人は多くいて、案外身の回りの世界は優しい。逆にあぁこの人は優しそうに見えてダメだわ、ということも一発でわかる。

 そうやってこれからも自分の周りを健やかに作っていく。貧乏は、案外悪くない。