お金と地位と泥団子

[1]大阪の終電

 治安が悪い。本当大阪ってやつは。ZOOZのスタジオ終わりで京都から大阪へ帰るとき、どうしても終電に乗る時間になる。大阪駅ではぎゅっと濃縮された人間の業と沢山の欲望と吐瀉物が散乱している。

 酔っ払いと駅員が揉めた直後の改札付近で、なぜか酔っ払いが財布から札束を捨てていた。僕は歩きながらそれを眺めていた。不思議と、くしゃくしゃに床に投げ捨てられた札に欲深い僕の視線は固定されてしまったが、お札がシンプルにただのゴミに見えた。

 同時に、僕はこんなものに人生振り回されているのか。こんなものに一日の大半を捧げているのか。自分自身にすごく悲しくなった。一時的であろうと、お金から解放された酔っ払いが少し羨ましく見えた。

 

[2]運が良くなる

 電車に乗ると「あなたの運がドンドンよくなる」と書いた広告が目に入る。これまた大金運の著書の広告だ。そういえば朝の通勤電車にも貼っているな。

 外で目を開いている時間は、ほとんどお金にまみれている。ICOCAでマネーポイントが貯まるらしい広告も目に入る。もうやめてほしい。こんなものから解放されたい。さっきの酔っぱらいみたいにお金を捨てようか、それは無理だから、無理な自分が悔しくなってくる。

 そういえば学生の頃の友達は、今ではすっかり「年収マウント」を取る人物に変わっていた。ある友達は「地位マウント」を取る人物に変わっていた。もう当時の友達ではなく、何かに縋って下を見ないと安心できない哀れな存在に見えなくもなかったが、一方で少し羨んでる自分も居なくはなかったので、マウントは割とそれなりに僕にダメージを与えていたようだった。

 

[3]泥団子

 幼稚園の頃、友達と下駄箱の奥に泥団子を隠して、毎日毎日ピカピカに磨き上げて遊んでいた。ある日、その友達とピカピカの泥団子を同時に滑り台から転がしてみると、二つとも泥団子はあっけなく割れてしまった。割れてしまったが、楽しかったねと笑い合っていた。

 今思えば、あまりにもピュアで、あまりにも子ども的な価値観で生きていたと思う。お金も、年収マウントも、地位も、ピカピカの泥団子と同じようなもののはずで、本来非常に脆く、不安定で、本当に価値があるのかよく分からない。

 けれど、そういう不確かなものに縋って生きなければ精神を保てないのが世の大人の大半である。そう思うと大事な泥団子が割れて笑い合っている子どもの方がよっぽど立派だ。

 そんなことを思い巡らせているうちに僕は最寄駅に到着した。今日は少し子どもに還れたかもしれないと、胸を張ってICOCAを使って改札を通り抜ける僕だった。マネーポイントは貯まるのかどうかなんて知らない。