「疲れ」という病

 

[1]10年前の付箋

 世界史。大学院生の頃に購入して、そのまま押し入れに10年近く詰め込まれたままの世界史の本は、先日僕の断捨離に巻き込まれて、幾らか家から姿を消した。

 しかしながら多数の本は大学院生の頃に貼った大量の付箋と共に発掘され、どうしても捨てることができなかった。

 あの頃の僕は、今頃こんな生活や、思想や、人生観になるだなんて思っていなかった。今頃何かしらに成功して、後ろ向きなストレスからは解放された人生を歩んでいるはずだった。

 当時の性格を表すように、乱雑に規則性なく様々な色で貼られた付箋を眺めながら、「あの頃の僕はあの頃の僕で、人生を自分の力で拓こうとしていたんだな」と感じていた。10年前の自分のパワーを感じた。何冊か拾って、また久々に読もうと目につくところに積んでおいた。

 

[2]吐くまで飲まない

 吐くまで飲みたい、という気持ちだけがある。夜が少し肌寒くなってくると、大学生の頃を思い出す。

 学祭やら何かと理由をつけて打ち上げをするのが大好きなサークルに入っていたので、居酒屋を貸し切り、吐くまで飲み、閉店後は近くのコンビニに寄って、大量に酒を購入して部室に大挙して、これまた猛者だけが明るくなるまで嘔吐と共に飲酒をしていた。翌日は真っ白な顔のまま講義に出席した。

 吐くまで飲みたい、というのは実際に吐きたいわけではなく、感情を解放して夜中にだらだら色んな話をするのが非常に好きなだけだった。そういう時間を過ごすのは、大抵少し肌寒い季節だったので、不意に恋しくなっていた。

 まあ、お酒のステキな力で友達は池に飛び込むし、後輩は鉄塔に顔を突っ込んで寝るし、僕は頭から血を流すしで、良いことなんて一つもないのだけど。時間の浪費がただただ楽しかった。

 

[3]時間は水

 時間の浪費が怖い。歴史の本は読みたいし、深酒をして次の日を台無しにしたいのだけど、生活するために一番元気な時間帯を労働に捧げているものだから、退勤後は疲れた体であれもこれもしようとして、せせこましい生活になっている。いずれ僕はこの週5の輪廻から逃れるために計画を立て、仕事を辞めるだろう。

 ブラック企業に勤めていたとき、終電までに及ぶ中身のない会議で、社長は「時間、お金、やり甲斐、この中から大事なものを選べ」といった。

 僕は迷わず「時間」と答えたが、社長のシナプスを通じて「やり甲斐」に変換させられ、また見返りのない無理難題な仕事量を任されることになったが、あのとき「時間」を選んだ僕は今も変わっていない。

 今の人生は間違いなく楽しいが、より楽しく、時間を得るために、捨てなきゃいけないものがある。それは、この前僕が断捨離した歴史の本ではなく、なんだろうか。退勤後に考えているうちに、疲れで頭が回らなくなって考えることを辞めてしまった。こうして僕は明日も、歴史の本を読みたい、深酒をしたいと思いながら、何も変える勇気がないまま仕事へ向かう。