死と膝と地場

シンガロンパレードのツアーと近鉄電車の話

 

[1]死はポップ

 月に数回大阪から名古屋へ、単身近鉄電車に乗って練習へ向かうことが、ここ最近の人生に組み込まれている。電車の中では色んな人の色んな人生がその場限りですれ違う。

 津で恐らく六十代であろうか、四人組の女性達が乗ってきた。偶然にも僕の周りを取り囲むように陣取って話し、「夫はさも当然のように生きているけど、どうせ私達よりかは早く死ぬ」「この中で誰の夫が一番最初に死ぬのか」という話題で盛り上がっていた。

 活字では伝わらないが、これは夫への不平不満から漏れているネガティブな話題ではない。無論「夫に早く死んでほしい」なんて誰も微塵も思っていない。むしろ逆で、「死」というライフイベント、刻々と近づいている長年連れ添った人への別れに対する心の準備が、ある種話しやすい話題として「エンタメ化」され、ポップネスに昇華されていたのだ。「終活」というべきか、あらゆる死を前向きに置き換えようとする心の整理が、こういう会話に現れているように感じた。興味をもって耳を傾けている内に名古屋に着いた。

 

[2]誠実さを勘違いしていた

 10月、11月に計三回、京都のシンガロンパレードというバンドのリリースツアーに、ガストバーナーでお邪魔させてもらった。全て終わった今、ライブの疲労から回復すればするほど寂しさが増している。

 2016年に京都MOJOで彼らと初めて対バンしたとき、京都という土地がそうさせたのか、演奏、転換、時折すれ違う彼らの姿を見てひたすら「尖っている」「怖い人たち」「孤高」という印象を勝手に持ってしまっていた。そういった勝手な人柄の解釈を下地に接していたので、頭のどこかでは「僕はどうせ相手にされない」と思っていたし、そういう思考ではいつまでも仲良くなれるはずがなかった。

 今回のツアーでようやく、僕は歪んだメガネで彼らを観ていたということ、シンガロンパレードの皆が音楽に、人間に、生きることに誠実で、あまりに誠実すぎて逆に「尖っているように見えていたこと」「彼らが眩しくて「怖い人たち」とレッテルを貼り、自分の不誠実さを誤魔化していた」ことがわかった。メガネ変えようかな。

 

[3]近鉄電車ではなくライブハウスで逢いたい

 広島4.14でのシンガロンのライブ、観ながら本当に今日で一緒するのが終わりという事実に寂しくなり、気がついたらライブで感情が揺り動かされすぎてホロっと泣いていた(まだ顔がドロドロになるまで泣けるくらい僕の心は綺麗ではなかった)。また何度でも対バンしたい。ライブハウスは世間のイメージより良い場所であり、イメージ通りの場所でもあり、イメージ以下の場所でもあるが、ともかくその場限りのコミュニティがもつ力というものがある。久々にそういう地場とその場に居合わせた人の力を感じた日々だった。

 このブログは今、ガストバーナー名古屋での練習終わり、一人で大阪へ帰る途中の近鉄電車内、二人掛け椅子の窓側席に座って書いている。が、隣にどかっと座ってきた男性があまりにも大きく膝を広げ、ぐいぐいと押し迫り、自分の領地を強引に広げるもんだから、僕は凄く肩身が狭く、縮こまりながら書いている。彼には是非シンガロンパレードを聴いて誠実さを取り戻してもらいたい。

 シンガロンパレードは色んな人に響くはずだ。勿論これから待ち受けるであろう「死」をポップに笑い飛ばす素敵な六十代の女性四人組にも。近鉄電車ではなく、ライブハウスで逢うことができれば、また違った響きをみせるはずだろう。