ヒジの破れたカーディガン

[1]大学で学ぶこと

 何年も着倒してヒジが大きく破れたカーディガンをいつも羽織りながら講義していた社会学の教授を見ながら、社会を学問する人が社会から逸脱した服を着てていいのか?と当時学生の僕は思っていた。

 しかし落ち着いたトーンで放たれる内容の狂った講義がなんだか魅力的で、破れたヒジを視界に入れながら、教授の浮世離れ感をエンタメとして楽しんでいた。

 風が吹けば飛んでいきそうな、来年には現世からそっと離脱してそうな、そんな教授は着の身着のままだけれど、間違いなく学問が彼の心を豊かにしていた。お金やモノで満たされないもの、大学で学ぶのはもしかしたら、そういう目に見えない豊かさなのかもしれない。

 

[2]スイミー

 大学の頃、所属していた軽音楽サークルは割と大所帯だったが、今思えばただただ大学に馴染みきれない孤独な人たちが肩を寄せ合っていたに過ぎなかった。小魚が集まって大きな1匹の魚のようにみせるスイミーのようだった。

 孤独な人たちが身を寄せ合うと、普段との反動で良くない意味で気が大きくなってしまう。大学内での多少のアウトサイダー感に酔い、覚えたてのアルコールにも酔い、夜中に大学で騒ぎ、度々嘔吐を繰り返しながら朝を迎えていたが、悔しい、どこを切っても今では良い思い出になってしまっている。たまに今も音楽活動を続けている仲間に会うと、変に照れてしまう自分がいる。

 大学で覚えたのは、豊かさは目に見えないということと、慣れないアルコールで無理やり手に入れた思い出だった。

 

[3]豊かさはコーンポタージュでも買える

 豊かさというものはどこからくるのだろう。働きながら考えていた。お金は豊かさを手に入れる切符のようなもので、それ自体に豊かさは内包されていない。

 なんでこんなことをつらつら書いているかと言ったら、今日みたいに冬がもう終わりそうな素振りを見せるとき、大学の友達との思い出が蘇ってくるからだ。

 酷く酔っ払って一緒に歩いて帰っている時に、「通りがかった自販機にコーンポタージュがあれば必ず1本飲み干さないと進めない」という謎ゲームをして、本数が重なるにつれて苦しくなっていく様を、お互いに寒さの中ケラケラ笑い合っていた。

 なんてことないのに、今思い出してもなんだか楽しいのは、僕がそのひとときに心の豊かさを手に入れていたからだろう。お金が沢山あっても、コーンポタージュでケラケラ笑い合う日は買えないだろうな。