何で音楽をしているんだろうということ。

[1]

大学院時代に出会った人たち、すごく尊敬している。僕はたったの2年間、しかも家から遠いという理由であまり研究室にいっていなかった(今思えば学問を食べて呼吸するような超人達が集まる研究室独特の空気感に圧倒されて行けなかったという理由の方が大きい)けれど、そこに所属していた人たちは本当に魅力的な人が多くて、真っ直ぐで負けず嫌いで優しくて厳しい人達ばかりだった。

アカデミックな空間と、その空気を吸って毎日議論して生活する人達の暮らしと思考と佇まい、僕にとても大きな影響を与えた。

 

[2]

みんな自分の研究への打ち込み方が常軌を逸していた。その上、相手がたとえ教授であっても議論では関係なく斬り合うプライドと知識量があった。それほどまでに毎日毎日自分の研究を叩き磨き上げて、丹精に作り込み続けていた。これは僕にはなかった。その時は気づいていなかったけれど、僕はどこか本気ではなかった。

狂気といっても差し支えないほどまでに研究に打ち込む同僚を横目に、自分は本気になりきれない劣等感をとてつもなく感じていて、そのうち3割ほど自身の行いを反省し、7割ほど環境のせいにしていた。

本当はそのくらいの気高さを持って打ち込みたいのに。

 

[3]

そういった劣等感を抱えたまま大学院を修了した。教授か同僚か、誰から言われたかは忘れたけど「真っ当に生きる道に戻るにはこれが最後のチャンスだよ。ここから先の研究の道に進めばもう戻れない。茨しかないよ。」と言われた。真人間に生きるレールに乗ることになったけれど、凄い人たちに囲まれて過ごした2年間があったせいで、社会に出て「一体自分は何がしたいんだろう?何に打ち込みたかったんだろう?」という自問をより一層強く抱えることになった。選択肢はそう多くなく、学問に打ち込みきれなかった劣等感を、音楽に代えて自分なりに打ち込むことになった。

 

[4]

この経験がなかったら、きっと僕はとっくに音楽なんて興味がなくなっているだろうなと思う。狂ったように学問に打ち込めなかった僕は、手段を学問から音楽に置き換え、打ち込みたいだけだった。

打ち込んでみた先に、新たな面白さがあって、また打ち込んで、その先に面白さがあって、鼻先に人参をぶら下げられた馬のように走り、気がついたら真人間に生きるレールから外れて茨の道に突っ込んでいるのかもしれない。茨という自覚がないので実態は分からない。ともかく、今現在楽しい源流には大学院のときに出会った人たちの影響が大きかった。こうやって人生を編んでいくのは他人からどう見えていても良いものだなと思う。さて、ドラムやスティック買おう。ほとんど折れちゃったし。