ブラック企業の追憶

 

[1]雨の匂いはブラック企業の匂い

夏が近づいている。しかしながら梅雨がまだ精力的に威張っているせいで雨の匂いがそこかしらから立ち上ってくると、体に刻み込まれたブラック企業の記憶と当時の心の疲労感が否応なしに蘇ってくる。

ブラック企業を辞めてもう三年以上経つ。あの日々は果たして本当に自分に起きた出来事だったのか。これからどんどん当時の記憶は薄れていくだろう。というよりも薄れて欲しい。わざわざ当時のことを思い出す行為に意味はあるのかと不安になるけれど、一度書き留めてしまうともうこれ以上思い出さなくて良いという安心感も得られるので、ようやく、特定されない範囲でなるべく具体的に書いてみようと思う。

ドラえもんで言うなれば「大スペクタクル」なボリュームで。

 

[2]楽しいモラトリアム

僕は大学院を修了してから就活を始めた。学生身分の間は学業に集中していたかったのと、進路をいつまでもぐだぐだ考えていたせいで就活の旬を逃してしまっていた。ともあれ大学院を出た僕は、学生時代からずっと続けていた難波でのお好み焼き屋のバイト、就活、バンドを行ったり来たりするフリーターモラトリアムの最終章を過ごしていた。

この時期に裁判員裁判官に選ばれて黒マントみたいなものを羽織って裁判に出たり、やたらとついていたので三ヶ月くらいであっさり就職が決まった。向かうところ敵なしだった。筆記は受かるわ、面接はライブの経験があって堂々としてるわ、余裕だった。人生はイージーである。

就活が終わり社会に出るまでの九ヶ月間は、バイトなのにお好み焼き屋の店長をして(そもそもテナント契約の関係から半年後に閉店が決まっていたのでオーナーが自由にさせてくれた)、シフトを組んだり遊んだり自由気ままに過ごしていた。

 

[3]2%の確率でアタリを引く

企業というよりは公的な機関への就職だった。同期が数百人ほどいて、一ヶ月くらいは丸々座学やら何やらの研修を受けていた。そこでもなんだ社会って余裕じゃんって思っていた。周りの新入社員は緊張してうまく話せていないし、これから頑張って成果を残すのが本題なのに、研修の何もない空っぽの時点でお互いに背伸びして背比べしあってうっすらマウントを取り合っているのがなんだか滑稽に見えた。

研修の終わり頃に、所属する部署が決まった。僕は100人に1〜2人程度の割合でしか入らない激務の部署に配属されることになった。アタリを引いた。

 

[4]これが社会の全てだと思った

激務自体は別に良かったけれど、その部署はあまりに問題がありすぎて、僕を含めて人員が春から刷新されたらしかった。刷新といえば聞こえは良いが、実情は「僕を含めノウハウを知らない人たちだらけになった」というのが正しかった。たったA4ペラ紙二枚の引き継ぎで済まされた僕は、分からないことを周りに聞けども周りも着任したてで何も分からなかった。

ある程度社会人を経験した今思えばやり方はいくらか見つかったと思うが、当時の僕はどうしようもなかった。一人で捌けないほどの業務量、やり方はまともに引き継がれていない、周りに聞いても誰も分からない、周りも忙しいから邪険に扱われる、というハードモードに振り回されていた。ずっとテトリスのゲームオーバー寸前でギリギリ保っている気分だった。

夜遅くまで残業をしていると、直属の上司が「飲みに行こう」と声をかけてくれ、週に何度かは「一時間コース」と称してそこから終電までぐいっと、かなりのスピードでアルコールを摂取していた。これは上司の計らいでガス抜きの意を与えてもらっていたが、自分の体には合わず、また断る勇気もなく、奢ってもらっている負い目が膨らみ体の疲労と心の負荷が蓄積した。これは僕が毅然と断るべきだった。

こういう部署なので周りの人も自律神経がやられて来なくなり、怒りが最高潮に達した外部の方が定期的に乗り込んできて警察を呼んだり、週に何度かは「貴方達は間違っている!目を覚まして!!」と一時間近く叫ぶ人も入ってきたりした。皆は、さもそういった人が初めから存在しないかの如く無視をして仕事をしていた。「そういうものだ」と言われたけれど、関係のない第三者の怒りに自分を重ねてしまう僕は、更に心が削がれていく感覚になった。

体調がおかしくなってきていた。部署に着任してから半年後の秋、改めて新入社員の集まる研修があった。激務の中、なんとか時間を作って仕事を抜け出して研修現場に着くと、別の部署で働く同期社員たちがわいわいお喋りしていた。「今日仕事終わったらどこどこにいこうよ」「30分も残業したら怒られる!ケチ!」「先輩が優しい」。同じ職場なのに別世界の話かと思った。今の自分の置かれた状況と対比して研修中に泣きそうになり、研修が終わって自分のデスクに帰ってくると仕事が更に山積みになっていて二重に泣いた。

 

[5]体は正直である

毎朝職場に近づくにつれて吐き気がするようになった。出勤までなるべく家を感じていたいので毎朝スーツに着替えてからギリギリまでベッドに横になっていたし、最寄駅に着いたら吐き気を抑えるためにこまめに空気を飲み込んで胃液の逆流を防いでいた。頭の中もずっと靄がかかるようになった。

仕事が終わり職場を出た瞬間だけが唯一安堵できる時であり、家に着くともう大体はすでに寝る時間なのでまた明日のことを考えて辛くなった。

休みとノー残業デイのときだけバンドの予定を詰め込んでいたけれど、日頃の抑圧でとにかく演奏が粗かった。粗いけれどむしろ感情が出てワイルドで良いとさえ思っていた。思っていないとやっていられなかった。

ある朝、いつものようにスーツに着替えて家を出る時間まで横になっていたら、体が動かなくなった。もう家を出ないと間に合わない時間になっても一向に体が動かず、気づけば涙が止まらなくなっていた。その日は休んだ。

心療内科に行き、出社したり休んだりを繰り返しているうちにいよいよダメになってきて、年末にかけて長期的に休んだ。上司の「まとまって休めば回復するよ」という優しい言葉の裏には「仕事が沢山あるのに休みやがって」という不満を含ませた意味が込められていた。結局休んだ後に出勤してもすぐ吐き気がぶり返し、職場で腫れ物を扱うような感じになったのも更に不調を加速させたりで、あまり覚えていないが、そこから雪崩れるように退職した。十ヶ月ほどしか勤めることができなかった。

 

[6]お好み焼き屋に出戻り

仕事を辞めるとしばらく陸の魚みたいな生活を送っていたが、少しすると嘘みたいに体も気持ちも回復した。気力が舞い戻ってきた。「ダメだと思ったら仕事を辞めてでも環境を変えるのは恥ではない」ということを学んだ。

かつてバイトしていたお好み焼き屋(以前とは異なる道頓堀のチェーン店舗)に出戻りして次の就職までの間、二ヶ月ほどお世話になった。馴染みの人も沢山いて良くしてくれた。僕が学生時代、この店舗に母親を紹介してパートさんとして入ってもらっていたので、僕が出戻りしたことで結果的に母親と同じ空間で仕事をする時間ができた。過度に心配するわけでもなく、突き放すわけでもなく、いつもの生活の延長上で存在する親に随分と心を救われた。そして、早くまた就職先を見つけて母親を安心させたかった。

 

[7]柔和な社長

お好み焼きの仕込みをしていると、エプロンのポケットに突っ込んでいたスマホのバイブレーションが鳴りだした。店長に許可を取って折り返してみると、とある会社から「面接がしたい」との主旨の話をもらった。

再就活を始めていた僕は、以前のような大きな組織の腐敗に辟易していたし、たった十ヶ月で辞めた負い目と、その経験をちゃんと次に繋げるために、今度は「小さな会社」「ニッチな分野だが安定している会社」を探していた。

店長に頼んで決まっていたバイトのシフトを無理やりこじ開けてもらい面接に向かった。会社に着くと40代のフランクで言葉の抑揚が優しい男性が出迎えてくれた。前もって調べていたのに、この男性が社長だということに気づくのに瞬間的に時間を要した。

社長は前職の上司達の堅苦しさから程遠い柔和な印象を受けた。面接ではこの十ヶ月間のことを正直に話した。福利厚生も募集要項でしっかり書いてあり、小さいながらもそういう部分はちゃんと取り組んでいるから、こういう柔和な人柄になるのかとさえ思った。最後に握手をして入社が決まった。報告すると母は喜んでいた。

 

[8]ひびはすぐ入る

入った会社については、取り扱う商品を話すとすぐに特定されてしまうので(バレていたとしても)避けるが、ざっくり言うと海外国内から色んなモノを輸入して小売店へと流していく卸業の類いだった。社長含めて15人前後の小さな会社だった。

ここで細々と力をつけて、自分の経済と心を安定させて、音楽を頑張ろうと思った。

違和感は少しずつ襲ってきた。最初の数ヶ月は問題なく働いていたが、社長の「君は営業が向いているよ」の一言で、入社から希望していなかった「営業職」に就くことになった。はっきり言うが僕は全く営業職に向いていない。こんな意味のわからないドラム叩くやつがまともに人と話ができるわけがないのだ。

ともあれ、たった十ヶ月で辞めた僕を雇い入れてくれたこの会社で頑張ろうと思っていた僕は、向いていない営業を担当することになった。人が少ない会社なので、営業は僕と、もう一人の男性の二人。基本的に電話とFAXの受注注文というオールドスタイルだったので、お客さんと電話しながら倉庫とデスクを走って往復する日々だった。

 

[9]柔らかい口調のまま

倉庫の近くで社長がよくタバコを吸っていた。ある時、タバコを吹かしていた社長に呼び止められた。「なぁ、田中(仮名)は駄目だな。実家がボンボンだから仕事に対する飢えがない。言葉が上っ面だけで何も響かない。最悪の奴だ。」田中さんは、先述したもう一人の営業の先輩だ。

面接の時のあの柔和な口調のまま、田中さんへの止まることない悪態をついた。そのうち田中さんの前でも「お前はいつも上っ面の顔だけだ」「新しい営業(僕)が入ったからお前は終わりだ」とか、心をナイフで刺すような言葉を羅列していた。

田中さんは田中さんで異常だった。社長を(表面上は)教祖のように崇めていて、社長が白といえば白、黒といえば黒という風に、全て社長が正しいと周りに吹聴して回っていた。そうやって社長の信頼を得てから、自分の意見をすっと社長の懐に入れて、他の社員よりも優位に立ち、マウントを取るのが得意だった。しかしながら、僕が入社した時期は社長の標的となっている時期だったので通用せず、そのうち社長の気分で左遷された。

こうしてその時々に応じて誰かをターゲットにしてイジメ抜くのが社長のやり方だった。田中さんは左遷されたが、大体の人は辞める。一年もすれば八割くらい社員の顔ぶれが変わる。突然社員が来なくなっても、社長は「よくあること」と言って切り捨てた。

 

[10]治外法権

タイムカードがないので残業は夜遅くまで無制限に行われていたが、残業代は出ない。早朝勤務もザラだ。祝日は休みだが、何の説明もなく全て有給として処理されていた(気づけば有給残数がマイナス表記になっていた&これを悪用して会社の募集要項には「有給100%!」と謳っていた)。会社の至る所には盗聴器が仕掛けられ、社長が家で聞いているという噂があったが、社長が絶対知らないはずの社員のプライベートなことも知っていたりしたので恐らく事実だった。

会社の健康診断は社長の親族がいるクリニックで行われ、どれだけ体が悪くても正常値が出るという疑惑があった。夜20時から社長の「会議するぞ!」の一声で集められ、「会社の未来」とか「金、仕事、趣味、どれが大事か」とか、よくわからない抽象的なことを何時間も話し合いさせられ、最終的には毎回誰かが詰められていた。

レクリエーションと称して休日の朝4時に呼び出され、何故か船で海に出て半日釣りをさせられた。へとへとになって夜に会社前で解散すると、みんなアルコールの入った体で終電近くまで仕事をこなしていた。休日に。

ある人は退職届けを出して辞めるまでの一ヶ月間、徹底的に社長から無視され、残る人が辞めにくい空気になったりもした。書き出せばキリがない。僕は、すぐ仕事を辞めて転職活動しても、履歴書で「二回もすぐ仕事を辞めているからこいつはどうせ辞める奴」と思われる不安があり、すぐに辞めることができなかった。そして冗談でも「僕、バンドしてます」なんて言えなかった。

 

[11]夜にお昼ご飯を食べる

営業の仕事は全く楽しくなかった。

そもそも扱うモノが特殊で入荷数も極端に少なかった。しかし、社長は予約をとれ予約をとれと言うので予約数ばかり膨らんで、お客さんから「いつになったら注文の品は届くのか」「お前が電話をよこして予約しろって言ったのにいつまで経ってもこないじゃないか!」と、一本電話している間に三件のクレームがたまるのを繰り返していた。一日中クレーム対応ばかりだった。クレームというよりかは、至極真っ当な怒りだと思うけれど。

対応している間に新たなクレームがたまる、どうしても電話の折り返しが遅くなり更に怒られる、クレームが社長まで届く。すると社長は「君は本当に仕事のできないやつだ。お客さんを怒らせて、会社の信用を失わせて、社員の生活を貧しくさせる行為を繰り返して何も思わないのか」と詰られた。

社長の方針でお客さんが望まない商品ばかり勧めるので、更にお客さんを怒らせた。商品の入荷日には近隣店舗のバイヤーが会社に乗り込んで根こそぎ買い去ってしまうので、ずっと前から予約してくれた人の順番は抜かされ、いつまで経っても商品の届かない人は沢山いた。毎日忙殺され、休憩はほぼ取れず、夜も深くなってから会社を出て、真っ暗になった公園のブランコに腰掛けて、お昼ご飯だったはずのお弁当を泣きながら食べたりした。

 

[12]台風がきた

事務の女性は「社長は子どもだから、常に誰かをターゲットにしてイジメないと気が済まないのよ。台風みたいなものですよ。」と言っていた。

そしてある日を境に僕が社長の標的になった。「君は平日たまにあまり残業しないで帰る日があるね。帰って何をしているんだい?」と聞かれた。僕は「たまに早く帰れる日は音楽が好きなのでライブを見にいったりすることもあります」と答えた。

次の日、朝礼で社長は言った。「この中で平日みんなを置いて先に帰りライブに行く奴がいる。仕事のことを考えたらライブに行くなんて発想は出てこないはずだ。仕事を趣味にしろ。平日は仕事、仕事、仕事。休みはちょっと休んだら空いた時間で仕事するんだ。それが普通の社会人だ。」

ある時は「売り上げが悪いときには自分で考えずにすぐ相談しろ」と言われたので、今日は売り上げがヤバいなと思い社長に相談しにいくと「君は脳みそがないのか?売り上げが悪いときは自分で考えるんだ」と言われた。社長の脳みそがなくなったのかと思った。

枚挙に暇がないが、あの手この手で社長に振り回され、人格を否定され、そのせいでお客さんから怒られ、田中さんは「元営業」という立場を利用してお客さんに僕の悪評を流して阻害したりして、どんどん僕は疲弊していった。田中さんの根回しにより小さなミスを大きな問題に仕立て上げられ、休みの日にお客さんのところに謝りにいき、罰として別の休日に倉庫の掃除をさせられたりした(その日はバンドのレコ発ライブだった)。

 

[13]突然辞めた

ともかく異常な環境から辞めることしか考えていなかったが、新しい営業が入ってもすぐに辞めるので、僕まで辞めると営業がゼロ人になってしまうため、いつまで経っても穏便に辞める目処が立たなかった。一応カバーしておくと、社長と田中さん以外の従業員の方達はとても良い人ばかりだった。

あるとき新しい営業の男性(僕の3つほど年下)が入ってきて、数ヶ月頑張っていたが社長の標的となり敢えなく退職、僕一人だけしか営業がいない状態になり、社長は「会社の体制を立て直さねば」と言っていた。僕はその言葉を聞いた翌日、体調を崩したといって欠勤し、その足で労基にいき、洗いざらい話し、そのまま会社を辞めた。一年半しか勤めることができなかったが、これ以上勤めると心が壊れてしまうことが前職の経験からわかっていた。会社の体制よりも自分の心を大切にする選択がギリギリでできて良かったと思う。

そのあとは背に腹は変えられずしばらく警備員のバイトをし、奈良公園の鹿をどかして車を通すなんてしていたけれど、結果的に今の会社に中途で入ることになった。普通の会社って素晴らしい。普通の会社って本当、素晴らしい。三年経つ今も噛み締めている。

 

[14]悪以外いなくなった

今の職に就いて一年程経ったとき、例の会社の同僚達と会う機会があった。一年会わない間に同僚達も皆、会社を辞めていた。

僕が辞めて営業職がゼロになって社長が奮起したらしいが、会社の売り上げは半分程になったらしい。今会社にいるのは社長と田中さん以外、僕の知らない人で、短期のバイトを大量に雇って凌いでいるということだった。

しばらくするとまっさらだった転職サイトに口コミが書かれ始めた。「盗聴器が仕掛けられている」「有給がマイナス表記になっている。」この書き込みが僕の入社する前にあればなぁ。会社では変わらぬ悪行が続いているが、こうして表に書かれるようになったことで僕みたいな失敗犯す人は減っているだろう。しかし、現在も潰れていないので、その生命力には驚嘆を感じざるを得ない。僕の存在などとうの昔に忘れられ、負け組ファイル(社長は辞めた人の履歴書を分厚いファイルに綴じていた)に綴じられたままだろう。

 

[15]辞めて全て解決ではない

この二社に勤めた二年半は地獄だったが、辞めてからも更に二年半くらいは人生の軌道を修正するのに時間を要した。結局五年くらいかけてようやく振り出しに戻ったことになる。ブラック企業に勤めている間だけじゃなく、辞めてからもずっと尾を引いて影響を与えてくる。彼らは他人の人生をぶっ壊しても何ら罪悪感がないしすぐ忘れる。ぶっ壊された側はその後も苦しみながら人生を建て直さないといけない。

僕がブラック企業に勤めて心が多少は強くなったと思っていたが、それは違う。自分の心の特性と限界が分かっただけだった。その結果、対人関係や業務上での対処法を身につけただけだった。心は強くならない。ふとした心ない言葉から受けるダメージは生まれた時から等倍で、悲しきかな対処の仕方、心の止血方法だけが研ぎ澄まされているだけである。

付随して「自分にとってヤバい人」も一発で分かるようになった。自分の心の特性がより深く分かったので、合わない人を嗅ぎ分ける嗅覚が鋭くなった。話し方、トーン、仕草、顔の筋肉の使い方で一発で分かるようになった。これもまた、心が傷つかないために身についた悲しい能力である。

ともあれ、今は随分と色々取り戻し、楽しく働き、音楽を純粋に楽しんで追求することができている。雨の匂いはあの時の日々をフラッシュバックさせるし、梅雨は髪の毛がうねりのグルーヴを出してくるので厄介だが、前よりも嫌いにはならなくなった。

世の中は暗いままだけど、この世の登場人物は劇的に変わらないのできっと暗いままだ。自分の心穏やかに過ごせる環境を、自分で整えるしかない。そのためには早く仕事を辞めたって良い。辞めたっていいじゃないか、と思う。

 

[16]さいごに

ドラム楽しい!!バンド楽しい!!仕事もまぁ悪くない!!と思える今の日々最高だよな!!良し!!