疲労と音楽

 

[1]

「他人の人生の時間を奪うことに配慮のない人」に過敏に反応してしまう。労働の場だと「なにかとすぐ人を集めて会議したがる人」「何か仕事に関わる話をずっとずっとただただ同僚と話して時間を浪費したい人」等を震源地に他人の時間が奪われている様子を横目で見るだけで、随分と関係ない自分がダメージを喰らってしまう。

 

「ああ!この人は他人の人生を奪うことについて何も感じない人だ!気づかないうちにアリを踏んでしまうように他人の時間を踏みつぶすタイプの人!!だめだ!苦しい!この場にすらいたくない!!」と思ってしまい、精神的な疲労が蓄積していた。「非合理で不条理で攻撃的でだらだらしたストレス」への防御力はゼロに等しかった。

 

 

[2]

音に感情を乗せるためには、を考えてドラムを叩いている(ここ1年くらいはそれを課題にしている)。

言葉の良さもあるけれど、音を言葉に変換した段階で音本来の持つ情報は大きく歪められ変化して剥げ落ちている。言葉は感情を伝える手段だけれど、音を音そのものとして言葉を介在させないで、音だけで会話すること、感情を伝えること、これが今の僕の課題だと思っている。

 

そんなことを考えていたら、昔の西欧の哲学者も似たようなことを考えていて、音楽と心の関係、音楽と感情の関係をどう捉えるかなんて考えているみたいだった。

 

【音楽は「言語」以上に、絶対的で超越的 vs. 音楽の行き詰まるところに言葉がある】論争もあったりするけれど「音楽は人生の神秘への答えである。音楽は芸術の中でもっとも深遠なものであり、人生へのもっとも奥深い洞察である」なんて言う哲学者ショーペンハウアーの言葉を信じて感情の表現をドラムで追求したいなと思う。

 

 

[3]

こうして、疲労と音楽に向き合う日々が続いている。そういえば、お酒を積極的に飲まなくなったし、夜更かしもしなくなった。

アルコールを入れすぎたり睡眠が少なくなると、翌日のドラムに大きく影響がでるからだ。体を最適化して音楽をする。こうして最近は人生を愉しんでいます。