結局は練習しかない

「ダサい」という言葉はネガティブだけど、責任感を持って使いたい。周りの声や、友達関係や、その場限りの価値観に流されて「かっこいい」気になっているのが結局一番「ダサい」ので、その辺りは仲が良ければ良いほどリスペクトしつつなるべくバッサリ斬るようにしている。

 

責任感を持ってダサさと向き合うためには、言葉に正直にならないといけないし、むしろかっこいいものよりエネルギーをかけて親身にならないといけないし、放置したいけれど、最終的には自分の実力でダサさを捻らないといけない。実力がないと言葉が上滑りするので、詰まるところはやはり練習か、と思う。こうして、僕はまた、個人練に向かうのであった。