1ヶ月遅れのお土産

[1]キーウィのぬいぐるみ

 島根に行った時、母にお土産をいくつかを買ったものの、いざ送るとなると途端に面倒になってしまって1ヶ月ほど放置してしまっていた。

 ずっとテーブルに置かれたお土産に目が慣れたころに、これはいけないと、そそくさと段ボールを買ってきて、お土産と、いつの日か天王寺動物園で買い足した鳥のキーウィのぬいぐるみ複数羽のうち1羽と、ガストバーナーとZOOZのCDとを梱包して実家へ送った。

 数日して母からお礼のメールが届いたが、キーウィのぬいぐるみが一番気になったらしい。丸っこいキャラが好きという、あまりに変わらなさすぎる僕のぬいぐるみ観に、母は幼かった頃の僕の姿を重ねたのだろう。キーウィ以外にも積もる話でもしたいと思い、飲みに行く約束はした。が、日取りは一向に決まらぬまま、夏がどんどん過ぎていった。

 

[2]人の心

 ミスを認めない人。「自分のミスを認めない」というのは、どれだけ素晴らしい自己防衛手段なのだろうか。認めなければミスではないし、謝る必要もない。恐ろしいほどに社会には居るし、恐ろしいほどにミスを認めないことで良い地位を築いていたり、良い暮らしを享受していたり、プライドを持っていたり、攻撃的だったりする。

 「人の心を捨てている人ほど、人らしい生活を送ることができる。」社会の矛盾に、僕はこれまでも、これからも悩まされ続けていく。悩んだり、突きつけられた不平等に気力を震わせることすらも、なんだか虚しい。

 ミスを認めない人が消費することのないカロリーと気を遣って、コストパフォーマンスの悪い生活をしている僕は、報われたいとまでは思わないものの、なんとか人の心を失わないまま、今後も暮らしていけたらいいなとは、思うようになっていた。

 

[3]大丈夫という嘘

 見栄と嘘。自分を等身大よりも大きくみせることは馬鹿らしいのだけれど、未だに気を抜くとそういった言動を取っている自分が悲しくなる。それでも昔よりは幾分かは減ったと思う。減ったという見栄を張っているわけではない。

 母に送るキーウィを梱包している時に「ぬいぐるみなんてもう卒業した」なんて見栄は張れないなぁと思っていたが、数年前まではブラック企業で心底苦しいのに母に対しては「大丈夫、大丈夫」を連呼していた気がする。

 「心配をかけたくない」という見栄や、「ブラック企業を見抜けず入ってしまった」自分のミスを認めたくないという気持ちが、「大丈夫」という言葉に集約されていたが、強かに生きる胆力は僕にはなかったので、すぐに心が折れてしまった。

 当時を思い返し、「まぁ、折れるだけの心がまだ僕には存在しているだけ、まだ人として生きようとしていたのかもしれない。」そう思いながら、キーウィのぬいぐるみを梱包し、1ヶ月遅れのお土産を発送する僕だった。