俗世に染まらないために

[1]迷わず俗世へ還る

 「俗世に戻るなら今のうちだよ」

 大学院は前半が修士課程、後半が博士課程に分かれていて、当時の教授が言うには「博士課程に踏み入れたらもう俗世に戻れない覚悟をしなさい」という意味で、俗世に戻るなら今のうち、と表現したのだと思う。

 その言葉に恐れ慄いた僕は、アニメ版魔法陣グルグルの最終回のように、こっちの扉を開ければ魔王、こっちの扉を開ければ家に帰れる、という選択肢で迷わず家を選んだ主人公たちのごとく、修士課程を修了し、迷わず俗世へと還った。そもそも魔王の部屋に踏み入れるほどの実力は僕には無かった。

 

[2]俗世は厳しい

 心配をかけるな。久々に降り立った俗世では、ブラックな部署を引き当ててしまい、毎日職場が近づくにつれ小気味良くやってくる吐き気と闘っていたが、とうとう家を出ることも出来なくなり、スーツを着るまではできたものの、体が動かない、涙が止まらない状態になってしまった。

 有給を使って休み、しばらくして復帰したが、また吐き気に負けてしまい休んだ日に、自分はなんて情けないんだと思うようになった。尻尾を巻いて大学院の研究も言い訳をつけて逃げ出し、意気揚々と俗世に降りてきたらこの様だった。

 久しく連絡をしていなかった母に連絡をした。「頑張って大学院までいった自慢の息子になんてことをしてくれたんだ!!」

 ほんの一年も経たないうちに社会で弱りきってしまった電話越しの僕の声に、母は職場への怒りを滲ませていた。母の怒りに寄りかかり、僕は少し安心した。

 

[3]心の拠り所

 辛い時に心の拠り所になってくれる人というのは、どれだけありがたいだろうか。

 俗世では、図太ければ図太いほど、他人を押し退け、無視をするほど、皮が厚いほど、人は目先の得を得ることができる。俗世に染まると言うのはきっとそういうことなのだと思う。

 今も毎日、そういった人の図太さに、思いやりのなさに脳が縮む思いをする。なんでこんな人達と関わり続けなくちゃいけないんだろう。そう思うものの、それは俗世の扉を開いた僕の運命だと受け止めるほかなかった。

 ため息と共に、あの時の母の怒りや、いろんな場面で心の拠り所になってくれた人たちの記憶を吐き出す。少し深呼吸して、いつか誰かの心の拠り所になれるように、僕みたいに耐性がないのにうっかり俗世の扉を開いてしまった人を助けることができるように、今日もまた俗世で生き抜くのであった。