MISOJIの主催者はFUWAKUの大先輩

 

[1]The denkibranというバンドを見た

MISOJI RIOT 2021というイベントにZOOZとガストバーナーで出演することになった。

f:id:sssuuummmiii:20210222234353j:image

解禁日に電車の中でうとうとしていたらMISOJI RIOTの主催者、knaveというライブハウスのブッカー、The denkibranというバンドのギターボーカルである倉坂さんという人物がぶわっと浮かんで瞼の裏で手を振ってきて、徐々にうとうとが吹き飛んできた。気づけば倉坂さんと出会った時の記憶を反芻していた。

 

10年以上前、僕が18、19歳の頃(Emu sickSを始める前)、大学の先輩に連れられてライブハウスに来た(先輩の圧力に逆らえなかった)。所謂ホールとかではない「街の」ライブハウスに来たのは初めてだった。

そこでその頃28、29歳辺りの倉坂さん率いるThe denkibranを初めて見た。なんだか年齢のことばかり論って申し訳ないけれど、その当時の僕は「30歳手前でもバンドできるんだ」という感想をはっきり抱いていて、当時は「社会人バンド」なんて言葉もなく、本当に素朴に良い意味でも悪い意味でもなく文字通り「30歳手前でもバンドできるんだ」と思っていた。その日はラーメンを食べて帰った。

 

 

 

[2]三国ヶ丘FUZZという地場

ほどなくして大学のサークル内でEmu sickSを結成し、上述の先輩の斡旋で、大学近くにあるライブハウスに出演することになった。(ちなみにその先輩にバンド名を「すごいうなぎいぬ」にされそうになった)

そのライブハウスが堺市に位置する三国ヶ丘FUZZで、そこで当時ブッカーをしていたのが倉坂さんだった。

結成したてのEmu sickSは本当にもう赤ん坊よりもどうしようもない、右も左もわからない、大学生の思い出と言ってもあまりあるくらいよく分からない塊だったけれど、その初ライブを見届けたのも倉坂さんだった。仕事だからなのか地でそうなのか面倒見が良い印象があり、2ヶ月に1回くらいFUZZに出続けていた(むしろ1年ほどは大阪市内のライブハウスは怖く、出演したが最後、市内は金属バットで頭を殴られると思っていたのでぬくぬくと堺のFUZZしかでていなかった。)。

 

 

 

[3]CUSTOM NOISEとの出会い

ぬくぬくと三国ヶ丘FUZZに出続けていたEmu sickS。1年ほどしてバンドの転機になるイベントに出演した(勿論倉坂さんブッキング)。

f:id:sssuuummmiii:20210220000636j:image

(↑EmuのHPにまだ載っている。craft rhythm templeとも初めて出会った日でもあった)

 

CUSTOM NOISEというバンド。このバンドがとても化け物で、圧倒的強さで、大学生のEmu sickSをボコボコにして、骨抜きにして、同じイベントに出ているのが恥ずかしいくらいの実力差を見せつけてきた。凹みと興奮が僕を襲っていた。

終演後、CUSTOM NOISEのメンバーが話しかけてきた。「君たちが○曲目にやってた曲かっこよかったよ」と。あぁ、すごいバンドに褒められたもんだ。これがEmu sickSにとって大きな転機になった。バンド楽しいという感情が初めて芽生えた気がした。

 

その話しかけてきた人がCUSTOM NOISEのベース、今は京都GROWLY店長の安齋さんだった。褒められたFuzzy Girlという曲はその後擦り切れるくらいやった。Emu sickSはCUSTOM NOISEみたいな曲をどんどん作っていた。大阪市内のライブハウスに進出した。そこでまたボコボコにされた。

ちなみにこのくらいの時期にEmuのメンバーが所属していたサークルの部長(僕は副部長だった)がThe denkibranのドラムを手伝っていた。なにかと近しいところに縁があった。

 

 

 

[4]MISOJIが始まった

数年後、大学を卒業したEmu sickS。メンバー内で社会人、大学院生に分かれたけれどもぬるっとバンドは継続、そして何故か学生の時よりも頑張り始めた。

その頃は大学卒業を契機に堺から離れて、心斎橋や天王寺のライブハウスにお世話になっていたので、自然と倉坂さんとの距離が少し遠のいていた。そんな時に、MISOJI CALLING(現MISOJI RIOT)が始まった。2015年の話。

f:id:sssuuummmiii:20210220060132j:image

その日はちょうど広島でライブがあり、親交のあるウサギバニーボーイ高宮さんの家に泊まっていて、SNSで MISOJIを追っていた。

「大阪は活力があっていいね」とか、高宮さんの前では嘘をつけないので大阪バンドの裏話あれこれを話していた。初年度はそんな感じ。

 

 

 

[5]あの日のブッキングの再来

2016年に、Emu sickSもMISOJIに出演させていただくことになった。初年度の盛り上がりをSNSで見ていたので息巻いていた。

f:id:sssuuummmiii:20210220081703j:image

f:id:sssuuummmiii:20210220081405j:image

タイテのここを見て欲しい

f:id:sssuuummmiii:20210220081606j:image

ここが非常に重要で、この時間帯はまさしくEmu sickSの転機となる2010年1月29日の三国ヶ丘FUZZだった。タイテを作った主催たちがニヤニヤしているのが見える。

そして、この時は「久しぶりにライブをするCUSTOM NOISE vs. ライブしまくっていて力をつけた(はずの)Emu sickS」の構図だと勝手に思っていたのでぶんぶん肩を振り回してライブに向かった。結果大きく空回りしてまたもやボコボコにされて敗走した。運命とはそういうものである。そういう場をセッティングしてくれる主催の粋さと、knaveの最後に出てくるThe denkibranは初めてライブハウスで見た時とはまた違うかっこよさがあった。

翌年は普通に遊びに行った(スパゲッティ・バビューン!をみて感動していた)。翌々年の2018年は呼んでもらった(もはや出演者がEmuの活動の走馬灯と言えるくらい濃かったけれど、話がブレてしまいそうなので割愛。)

 

 

 

[6]2021年、お互いまだバンドをやっていた

気づけば僕は初めてThe denkibranを見た時の倉坂さんの年齢をとっくに超えていた。あの時「30歳手前でもバンドできるんだ」と思っていた10代の僕は、全然今でも余裕でバンドを続けていた。なかなかの生命力である。

でも、もっと生命力があるのは倉坂さんで、MISOJIを超えて「四十にして惑わず」、不惑に突入しても尚、バンドをしているのである。もはやFUWAKU RIOTと呼ぶべきだと思う。

迷いのない人の音は強い。そんな人のイベントに呼んでいただいて嬉しいなと思う日々である。良いライブするぞ。

でも、きっと、こんなご時世ではあるけれど、チケットが売れないと「不惑でも心配すぎて惑う」ことになり、「五十にして天命を知れない」事態になりかねないと思うので、積極的にお手伝いしていこうと思う次第である(密にならない色んな方法でチケットお渡ししますので気軽に相談してくださいね)。

ま、楽しむ気持ちが1番だと思うけどね。とにかくシンプルに楽しんで良いライブをするぞという気持ち。きっとみんなそう。